昭和43年06月25日 夜の御理解
お互いの信心を銘々検討してみるんですね、そして自分の信心がどの程度に成長し、どの程度におかげを受けて行っておるかというようなことを、やはり確かめていかなければいけんと思うんです。なかなか素人では、ただ形だけでは分からない。例えばあの洋酒類なんか、あの場合なんか、まぁビンがとても瀟洒であるとか洒落ておりますとね、その洋酒はえい、えい物のようにこう思う。
又実際飲んでみても、こりゃ千円のだ、こりゃ2千円のだというても、素人じゃなかなか分からん。ほー、これが2千円もする。これは、千円しかしない。というものをです、実際にその玄人でない限りやっぱ分からんです。結局その値段が高い、安いで決まるようなもんでね、信心も同じこと。誰の信心見掛けだけでは分からない。というてなら飲んでみても実際には分からない。ね、そこが素人ですわ。
ですからあのおかげを頂いて、自分達の信心がどのていどの信心を頂いておるか。まぁもちろん人の信心なんかひはんなんかも出来るもんじゃないですけれども。問題はそのめいめいの心の中にね、この程度のところを頂いておる。こう信じれれるというものが、結局その人の信心の、を決めるものだとこう思うですね。決め手というのは。洋酒と同じことですよ。分からん。
こりゃもう洋酒に限ったことじゃないでしょうけれども、例えば反物なら反物でもそうかも知れませんですね。一万円の反物と2万円の反物をひょっとすりゃがらが良かろうに、一万円の方がよかというのが、いうものがあるかもしれんのです。という程にですね信心は尚更分からない。いかに信心が出来ておるようであっても実際は分からん。所謂ご承知なのは神様だけであり、又は感じられるのは自分だけである。
そこで今日昼のあの、御祈念の後の御理解を頂いておりますとね、御神誡の中に「物事に時節を待たず苦をすること」とありますね。これはもう大変なことだと思うんですけどね。信心して時節を待つということは、最高のおかげを受けることである。信心して、いわゆる時期を待つということはもう、最高最大のおかげになる事です。ところがさあ私共は、時節を待ちきらん。
さぁもうもう苦しゅうございます今治して下さい、今おかげを下さいと言う様な事になる。それはそれでもねやはりそのおかげは受けたにいたしましても、同じままになるというても、ね、もうそんならおにぎりご飯に塩つけて腹いっぱいになるというのと、千円なら千円。2千円なら2千円の定食で今までなるのと違うほどに違うてくる。しかもその後が違う。これはね最高のおかげであるというおかげはね。
もうそのおかげがね、一つの決まったものになって、例えば千円なら千円の定食が頂けれるようになると、ずっと頂けれる。それが徳というもんです。ね、そこに、受け物が悪ければおかげが漏れるぞというが、受け物をね完全にするための時間を与えて下さるのである。ですから時節を待っておる間に、受け物を作らせて下さり、それを完全な物にするために時間を与えてある時間と悟らせてもろうて。
そこにお互いの信心の、信心の修行とか、徳を積むとかということが、必要になってくるわけですね。それが、私が何時もこれは言うておるように、成り行きを大事にしていくということ。いよいよ成り行きを大事にしていくという信心が身に付いたらね、もうこれが最高最大なんです、おかげは。ただそういうおかげを頂きたい。ですからまぁそういう一つのおかげを頂いておるお互いの見本というのが。
まぁここでは私なのであり、又皆さんも、成る程時節を待って、時期が熟してのおかげというのはこんなもんかと、体験されておられる通りのことである。物事に時節を待たず苦をすること。たったこれだけの言葉の中に大変なもの、そこでその今日私がいう、自分の信心が本当なものか、本当なものでないか。又は、どの程度のものであるかということを、これは自分で見極めることの出来るのは。
こういう教えを私は一つの引き合いに出す事だと思うですね。私が何時の場合でもどんな場合でも、どれほどに、時節を待たれるかということ。どれほどにいうならば親先生任せになれれるかということ。それがあなたの信心のいうならば決め手なんです。決め手というか、その人の信心を、分からせてもらう決め手なんです。どんなに信心が立派に出来ておるようであっても、お参りが出来ておるようであっても。
いよいよの時に任せられない。自分勝手なことをするような、例えば自分であるとするならね、神様は、それだけしか信じれていないのですから、そこには味もこくもあったもんじゃない。例えば洋酒でいうならば、やはり味も、香りも、こくもまぁ勿論酒精度数なら度数というものが、ね、有り難い勿体無いというその度合いというものが深いだけではなくて、味もこくもなからなきゃならない。
ですからそれは素人には分からないち。味やらこくやら香りやらというても、そんなに難しい実は。2千円のウイスキーも千円のウイスキーも、素人ではなかなかの見分けが出来ない。ですからそれを分かるものは結局自分自身と神様だけなんです。はぁ自分がこういうような問題をね、本当に任せき、有り難く任せきれないというところにです、自分の信心の程度というものを、ね、知るが良いと思う。
そうそうまぁ信心とその洋酒を比較しておかしいですけどもね。確かに素人では分からん。信心もなかなか、はぁあの人の信心は立派だというてもです、その内容はその人になってみなければ分からない。そこでなら自分自身が時折です、そういう信心のテストというかね、自分のどの辺のところを頂いておるかということを分からせて頂くために。今日の昼の御神誡なんかを。
の対する御理解なんかを頂いてみるとです、本当に自分が有り難い有り難いといいよるけれども、愈々の時にはこげんとりみだす。愈々の時にはもうこの位な事で腹が立つ。愈々の時にはこの位な事が任せきれない自分であると悟ったならばね、いよいよ一段と、もう上の信心を目指して修行させてもらわにゃいけんとおもうね。
どうぞ。